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Black Monday / DOOM

02 16, 2007 | Posted in DOOM | Thema 音楽 » 歌詞翻訳

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Black Monday
by DOOM

俺はお前の愚かなシステムなんか信用しない
俺たちを抑圧するこのシステムに死を
お前の資本主義者としての考えは老朽化し、使い古されたものだ
お前の経済が崩壊して、廃れることを願う
新しいはじまりを…
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Slave to Convention / DOOM

02 10, 2007 | Posted in DOOM | Thema 音楽 » 歌詞翻訳

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Slave to Convention
by DOOM

仕事に就く、
車を買う、
家を買う、
死ぬまで奴隷さ──慣習の奴隷という

長居公園、野宿者強制排除、無念

02 06, 2007 | Posted in 管理人の独り言 | Thema その他 » これでいいのか!?

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年明け早々にも強行されるのではないかと危惧されていた、大阪・長居公園での野宿者「テント」の強制撤去・排除が2007年2月5日行われた。(詳しくは釜パト活動日誌へ)

当日、野宿当事者と支援者によって、野宿から排除に至る過程を描いた寸劇が公園の片隅を舞台に敢行されたという。「争いではなく話を」求めた人々の、それは、一つの切実な表現であったのだろう。それを守って、排除にまわる雇われ警備員と市職員の暴行に耐えながらスクラムを組んでいた、支援者の厚誼にも今はいうべき言葉が見つからない。

そもそも現場にいさえしかなった私に、抗議行動を寸評する資格はあろうはずがない。

*  *  *


野宿の「問題」は、野宿者に起因する問題とかたづけられることが多いが、はたしてそれでいいのだろうかと思う。そもそも生まれついての不平等があらゆる人間の人生の前提としてあるのに、世間でよく言われるが、なぜ、野宿が個人的問題として切り縮められなければならないのだろうか。ともあれ、現実は、今回の大阪市の所業に現れているように、「法」をたてにとった行政の攻撃が、「人間らしい生活を送る」という、(憲法にすら規定されているような)人としてのより高次の基本的な権利を踏みにじっていたとしても、「正義」として「処理」されてしまう、きわめて残酷なものだ。

この問題は、善意の少数者が身銭を切るという「慈善」行為ですむようなものでもない。それは社会的な対話を前提とした、長い時間をかけた対応を抜きにしては解決できないものであって(福祉をどのように実現するかという難しい問題との格闘も必要になる)、強制排除という手段によって、短時日のうちにカタを付け、一時的に「一般市民」の「目」にふれないようにしてしまえばいいという問題ではそもそもありえない。事実、所払いで野宿者は消えてなくなるわけがない。生きている限り、「おれたちはここにいる」(持たざる者の国際連帯行動のデモでの叫びとして、私はこの言葉を傍らに聞いたことがある)のである。──そして、「私たちは目を背ける」だけなのか。「私たち」とは即ち、常日頃サークルAの代紋を身に付けているpunksのことである。

野宿への道行きは確かに「個人的に」千差万別であって、一概にいうことはできない。しかし、人権を奪うカタチでようやく担保される行政の「シェルター」政策は、人を社会から切り離し、隔離するテクノロジーにすぎない。そんなもので「自立」をはかることじたいがそもそも無理なのだ。それで問題が解決されるなら、個人問題としての野宿の問題は存在しようはずもない。個人に「決意」を威迫して解決できるなら問題はとっくの昔に解決されているはずで、現実がそうならないことは、むしろ問題の構造性を暴露している。それはまた、ときに命をかけてヤクザと対峙してきた、寄せ場や港湾など、「底辺」の労働運動の苦闘が切開したことであもる。血反吐を吐くような個人の努力に対して、社会に定着できるだけのデヅラ(出面=労働賃金)を出してみろ! が、中小零細飯場・企業の雇用主も苦しいという現実がままある。なぜか? 産業を支配するてっぺんの一握りの大企業が甘い汁を吸っているからである。

野宿を個人問題としてカタをつけるために有効だと思われている言葉に、「働かざるもの食うべからず」というものがある。しかしそれは「健常者」の言葉であって、すべての人間にとって当たり前の論理として受容されるべきものではない。「障害者」は食わずに死ななければならないのか。そんなことはないと誰もが認めるだろう。では、出自が労働者や「主婦」であったりする野宿者は、ただ単に「怠けている」だけなのだろうか。そして、「怠けている」、そのことが、因果応報の最初の「因」とされるべきなのだろうか。その先を考えたい。

私たちpunksが、DIYのpunkであり、anarchopunkであるというならば、人が仕事からアブれ、そもそもきっつい仕事にしかありつけないような環境で生きてきたということを、どう考えるのか、当然そのことが問われる。

最近の野宿へと行き着く由来の傾向としては、いわゆる「きつい・汚い・危険」の3K労働からだけではなく、あらゆる種類の労働からの野宿へと到る道程も増えている。ある日突然クビを言い渡された貧乏俸給者が野宿者となる事例も当たり前のようにある。若者も多い。つまり従来の寄せ場労働者だけが野宿者にスライドしているのではないのである。また、大都市ではサウナやネット喫茶・漫画喫茶、あるいはドミトリー型のゲストルームでようやく仮の休息を確保している若者も急増している。これらの「大都市内流動型フリーター」は、不安定な宿りを転々としながら日雇い派遣労働・バイトにしかありつけず、いつまでたっても「正規の賃貸住宅」に入ることもままならない。

これらの現実は、日雇い寄せ場に結び付いたタコ飯場や、鉱山などのかつての「囚人」労働現場、また鉄鋼など金属精錬工場などに封じ込められていた暴力剥き出しの労働支配現場が、都市部において社会的に拡大し、深化してきていることを意味する。かつての飯場のオヤジが占めたポジションを様々な中小零細企業主が共有し、ヤクザのかわりに派遣企業が幅を利かせ、ヤクザ舎弟の手配師が派遣企業のバイト・パート労働者に置き換わる。奥谷禮子という派遣企業の社長などは(極端な抑圧のもとでは労働効率が極端に下がるだけなのに)、「過労死は自己管理の問題」「労働基準監督署は不要」「労働組合が労働者を甘やかしている」などと労働三法解体をめざすかのような言葉を語っては、支配的資本ブロックに媚びを売る。また、前記したネット・漫画喫茶、ゲストルームなどはドヤ(寄せ場特有の簡易宿泊施設)の代替物にすぎない。要するに一言で言えば、寄せ場の社会化が進行している。日雇いのセンパイたちは、後続の私たち自身となった。いや、私たち自身がセンパイになりつつあると言うべきだろうか。変わらないのは、その頂点に限られた者だけが君臨し、肥え続けているということだけだ。

寄せ場の社会化、貧困の拡大という状況にあって、他方では「下流」のマーケティング(三浦展)などというえげつない言葉が公然と語られ、記され、出版され、政・官・財が一体化したサロンで、貧乏人を生かさず殺さず搾り取る手練手管がマーケターやプランナーたちによってお披露目されている。ついでに「犯罪予防」として、「犯罪」の「不安」を焚き付けながら「住民」一人ひとりを煽動・動員して各種条例レベルでの治安立法を推進し、また刑法レベルでの重罪化・重罰化を進め、裁判員制度による司法の貧困化を確立しておけば、棄民政策による「社会不安」に蓋ができるとばかりに、エリートたちが研究を積み重ねる。不祥事頻発にあっても警察予算が増大を続け、また自民党が内調(内閣情報調査室)をはじめとした情報機関の、治安弾圧の準備活動となる情報活動の強化を言う(「国家の情報機能強化に関する提言」(PDF)、2006年6月22日)。事実、安部政権は内閣の情報機能を強化しようと連綿と動いている(「チーム安部」、この動向については「内閣機能強化の現状と今後の課題」(PDF)、『立法と調査』2007年1月所収、が一つの手がかりとなる)。これは、圧倒的多数の貧民に与えるトレランス(寛容)は最低限でよい、しかし不満暴発の予防は必要だ、ということではないのか。

背景となる環境も含めこうした労働社会のもとにあれば、「怠け」は生得の性質などではないことをあわせて考えるとき(そもそも「怠ける」ことがどういうことなのか、正当な労働とみなされずに賃金が支払われないシャドウワークが世の中にはゴマンとあることをあわせ考えるべきだろう)、人が「底辺」労働者としてしか生きられないような「格差」がこの社会で当前とされている限り、「民主主義」のタテマエが、「法の元の正義」というカケゴエが、うつろに響いてこないだろうか。一部恵まれた環境を除けば、「民主主義は工場の門前でたちすくむ」だけでなく、どんな職場でもたちすくんでいることに、私たちはそろそろ気がついてもいい頃だ。

世界の統治構造として階級支配が貫徹されているからこそ、居住権をかちとろうとする闘いが世界中にあり、スクウォットにパンクスが協働し、また資本のグローバリゼーションに反抗してきたのではなかったか…。CRASSがなぜスクウォットされたダイアルハウスにこだわり、また多くのイギリスのanarchopunkが社会センターである 1 in 12 club を活用してきたのか、キモはそこにある。格差、より正確に言い直すなら、階級支配の問題への一つの回答として対決的な権利行使の実践がある。Ungdomshusetを守ろうとするパンクスやアウトノーメの直接行動は、貧しき人間の最低限の「人間らしい生活」を闘い取ろうとする意志を象徴する。それは、支配者の論理である暴力/非暴力の二元論に依拠しきった「非暴力抵抗」などという口当たりのいい行動では決してありえないが、単にマスコミネタの「暴動」としてあるのでもない。

話が逸れた。先に問題の構造性と言表したが、この問題の根因は、貧困と不平等を産み出しながら、息も絶え絶えに延命をはかっている巨大資本の支配の仕組みそのものにあるのではないか。トヨタは記録的な莫大な利潤を獲得しながら、「競争が大変だから」と、その利益を働くものに分配しようとはしない。格差というなら、役員と現場労働者の格差はどうだろう。看板方式(系列による保護的受発注システム)を反古にされ過当競争に叩き込まれた下請けについては比較しようもない。基幹産業がこうであれば、いきおいあらゆる産業の構造が、ボトムを締め上げるかたちになるのは成りゆきとして難くないだろう。建設産業で談合が横行するのも、トップの搾取と安泰のために、下請けを生かさず殺さず誤魔化すための方策ではないのか。日本経団連は「ホワイトカラーエグゼンプション」(残業代ゼロ)政策をぶちあげる前から、「我々のコスト意識が許すのは、必死こいて頑張ってくれればいい正社員は二割までで、後八割はまあテキトウにやんな、面倒みきれないから」という主旨の本音をあからさまにしている(言葉そのままではないが)。

この資本主義世界では、いつだってごく限られた一部の人間が富を独占し、甘い汁を吸ってきた。「能力に応じた報酬」「格差は自己責任」という言説はまやかしにすぎないのではないか。それほど不平等と搾取、そしてそれを貫徹させようとする支配の存在は歴然としている。そして、この支配構造は「構造改革」の名のもとに、ますます強められている。

人生のスタートラインとしての不平等の問題を問わないとしても、実際問題として、野宿は決して他人事ではない。多くの人間が気張って働いて何とか生きているものの、いつ仕事を失って路頭にさまようことになるか分かったもんじゃないという不安に怯えながら暮らしている。だからこそ、野宿の問題は私たち自身の貧困の問題でもあるのだと思っている。

追記:
しかし、何が「再チャレンジ」だ。門閥血筋でいい目を見てきたボンボン二世・三世の政治屋どもこそ、このひどい労働市場での競争に、何の縁故もなく「チャレンジ」すべきだろう。

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Author:anarchopunk
Note: 歓迎誤訳指摘如何訳詩利用
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